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テーマ

原州法泉寺址智光国師塔碑(第59号)

国宝
stupa of National Preceptor Jigwangguksa of Beopcheonsa

(国宝第59号)

原州法泉寺址智光国師玄妙塔碑

文化財分類

国宝第59号

住所

江原道 原州市 富論面 法泉里 山74番地

自家用車利用

原州市外バスターミナル - 中央高速道路の南原州ICを過ぎて約5分所要 - 嶺東高速道路の万鍾分岐点を過ぎて約9分所要 - 文幕IC 驪州|富論方面に左折(原文路) - 原州法泉寺址

時代

11世紀(1085年、高麗宣宗2)、高麗時代の智光国師の行跡が記録された塔碑

来歴

この塔碑は智光国師の行跡が記録されていて、智光国師の舎利を奉った玄妙塔(国宝101号)は韓国の浮屠のうちで傑作に選ばれるもので、本来この寺にあったが、今は景福宮に移されている。碑文は11世紀の石碑を代表する傑作品で碑石の材質は淡い青色の粘板岩だ。文は高麗初期の名文家である鄭惟産が作り、文字は安民厚が欧陽詢体で書いた。碑の前面には智光国師が修行したいきさつが書かれている。


智光国師海鱗(984~1070)の属性は元氏で原州の土着勢力出身だった。法皐寺観雄大師の下で修学し観雄大師について開京に入って出家し、16才の時龍興寺で具足戒を受けた。1004年(文宗7)、21才で僧科に合格してから法相宗の僧侶として大徳になった。高麗初の玄宗は玄化寺を創建して大々的に法相宗教団を支援したが、海鱗は71才になった1054年(文宗8)、開京にある玄化寺の住職を引き受けて経典を板刻した。


彼は三重大師・僧統・王師の称号を受け、74才になった1057年(文宗11)、奉恩寺に国師として推戴された。1070年(高麗文宗24)にこの寺で亡くなった。裏面には1370人余りにもなる国師の弟子の名前および人数が書かれている。碑石が建てられた年代は1085年(高麗宣宗2)と記録されている。

様式的な特徴

近隣に智光国師玄妙塔があったがこの塔は現在、景福宮内にある。基壇の四方に角形礎石が配列されている点から見てこの塔碑は保護殿閣の中にあったものと推定される。碑身は亀趺螭首に方形碑座を作って溝を彫った後、碑身下段に枘を作って合わせて建てた石碑だ。碑石の上部分である螭首は2段で構成されているが上段中心部は塔の相輪部と同じく空を飛ぶ天女・太陽・月などと共に仏教の理想世界である須弥山が繊細に彫刻されている伏鉢の上に蓮の花が彫刻された三つの宝輪がある。螭首の下段部は塔の塔身石を転写したもので建物の軒が空にパッと広がるように四方の隅とその間に花を彫って、飛んで行くような姿に彫刻されている。ところどころ見える二つの蓮の花びらと雲の中の龍の幻想的な彫刻は、軒平瓦を仏教的脈絡で造形化した創意的な図像と評価されている。基壇部が2段の長台石になっているのは、一段台長台石の寧越の興寧寺大師塔碑と違っている点だ。